塚原を中心として、本町から仲町、茅野町にわたる平地にも古墳が多い。塚原という地名は、古墳すなわち豪族の墳墓(塚)の多いところから付けられた地名である。それ故、古墳の多いのは当然である。
塚原三塚として、大塚・姥塚・王經塚があるがその内最も大きい塚が大塚古墳である。
古墳は平坦な水田の続く中に、20m四方のほぼ四角形をしたところに大きな川原石が積み重ねられ、その上に草が生えていた。標高は790mである。明治初年の頃は、これが古墳であるとは誰も知らなかったので、乞食など身寄りのない人が死ぬとその遺骸をこの上に埋められたと云われている。。
発掘は、明治24年5月に道普請用の石材を採取するために塚原区によって行われた。
墳丘は大きい川原石をもって周囲33m、高さ3m積まれ、土は用いてなかった。また、天井石には3枚の平石が使われ、石室は羨道がなく長さ7.3m、幅1.5mの長方形で、側壁は持送り式になっていたという。
以上の記録でみる限りでは、墳丘はいわゆる積石塚と呼ばれるものとみられる。
出土品について現在確認されているものは、玉類等の装身具・直刀・刀装具・馬具・銅鋺などである。
玉類は勾玉21 ・管玉2 ・切子玉28 ・丸玉51 があり、勾玉の石質は瑪瑙・水晶・滑石で丸玉はブルーのガラス製である。
直刀は腐食が著しく保存状態が悪いが、現在7本認められる。1本を除き、現長55cmから85cm、刀幅7cmから3.5cmの平棟平造りでふくら切先のものと、かます切先のものがあ。
1本は長さ39cmの短寸刀で平棟造りふくら切先である。
その他、優秀な副葬品が多数あるが、出度品は現在塚原林野農業協同組合に保管されているが一部については、茅野市八ヶ岳総合博物館に展示されている。
なお、この古墳は、古墳時代終末期八世紀初頭前後におけるものと推定されている。
また、大塚神社は、大塚古墳を取り除いた後に、その霊を供養する意味で建てられた神社であるが、駅東都市再開発事業に基づき、都市計画道路「仲町通り線」の建設のため、平成9年11月30日に仲町区民会館の敷地内に遷座し祀られている。
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